辻のお婆ちゃん|Tangoの話であったり なかったり(β版)

辻のお婆ちゃん

2017年4月 5日

 スペイン語がまるでわからず、食事も日本の味以外はどうも馴染めない僕が、それでもなんとかこれまでブエノスアイレスで生活してこられたのは、ひとえに辻さんというお婆ちゃんのおかげであります。

 酒乱の親に悩まされていた彼女は、半世紀以上も昔、新聞の求婚欄に載っていた男性と結婚するため、福岡からたったひとりで船に乗ってブエノスアイレスへ渡ったそうです。

 相手の男性は、日本の米作りの技術をアルゼンチンに伝えるために派遣された団体の方で、新聞には顔写真一枚載っていなかったのですが、自己PRのところに「下戸です」と書いてあったのが決め手となったそうです。「たったそれだけの理由で日本の裏側まで行って結婚するわけ? アルゼンチンがどれだけ遠いかわかってるの? 会って変人だったらどうするの?」と、周りからはさんざん言われたそうですが、酒乱に悩まされる気持ちや、距離を取ることでしか関係を維持できない家族もあることは知っていましたので、僕は、「いいきっかけが出来て良かったですね」というような感想を抱いた覚えがあります。

 派遣の任務を終えた旦那さんは、そのままアルゼンチンに残り、夫婦でクリーニング屋をはじめました。中国人はスーパーマーケット、日本人はクリーニング屋というように、当時は出身国によって同じ職業を選ぶ家庭が多かったようです。辻さんの住むエリアはあまり治安が良くなく、粗悪な麻薬がオレンジジュースより安く買えるとあって、子供でも薬中が多かったといいます。それなのに、旦那さんは近所の子供たちが訪ねてくると、例外なく1ペソを小遣いとしてあげる人でした。「あと20センターボ!」とせがまれると、それはダメ。ドラッグの値段が1ペソ20センターボだったからだそうです。

 また、旦那さんは、日本人が訪ねて来たら、知り合いかどうかは関係なくもてなすことをモットーとし、近くで喧嘩があれば飛び出して止めにいくといった、まるで昭和の日本映画を地でいくような方だったようです。僕はその旦那さんを、レジカウンターの上に置いてある柔道着姿の色褪せた白黒写真でしか存じ上げないのですが、家のトイレの便座の台が常に上がっていることに疑問を持っていると、それは旦那さんが用を足しやすいためにしていたことだとわかり、しかも旦那さんが亡くなって何年も経つというのに未だに続けていることを知り、涙が出そうになりました。ちなみに当時、薬中だった子供たちは大人になり、旦那さんが亡くなったあとは、「年寄りの女がひとりで店をやるのは危険だから」と、みんなで辻さんを守っていたそうです。

 白いお米や味噌汁はもちろん、納豆、冷奴、親子丼、刺身、すき焼き......。ブエノスアイレスに居るあいだ、僕は毎日必ず辻さんとふたりで、「私はタンゴより、氷川きよしの方がいいけどね!」なんて話を聞きながら食事をしておりました。彼女曰く、日本の食材はほとんど何でも手に入るそうで、それでもどうしても入手できない辛子明太子と柚子胡椒は、僕がアルゼンチンへ行くときに買っていくのがお決まりでした。また、ステーキやミラネーサに醤油をかけて食べるだけで和食っぽくなることを教えてくれ、どれだけ食べやすくなったことか。スペイン語がわからない僕に代わって、マリア先生やシルビア先生たちとの連絡も取って下さり、冒頭に書いた通り、僕のブエノス生活は、辻さんなくしては考えられなかったわけなのです。

 しかし、僕が約8年アルゼンチンから離れているあいだに、彼女は飼っていた犬が死んだショックもあってか認知症を患い、ブエノスアイレスの中心街から少し離れた老人ホームで生活しているという話を、母を通じて聞きました。「もうアナタのことは覚えていないかも知れないわよ」とも言われ、覚悟をしつつ、電車に乗って会いに行きました。

 確かにずいぶんお窶れになられてはいましたが、足腰はとてもしっかりされていました。いつもの柚子胡椒を渡して、結婚したことを伝えると、他の誰より心から喜んでくれたような気がしました。まあ、耳にタコができるくらい、「たけしくんのお嫁さんが見たい!」って言われ続けていましたからね(笑)。僕のことを覚えてくれていたこと、結婚の報告ができたこと、本当に嬉しかったです。

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