イメージ|Tangoの話であったり なかったり

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2020年1月29日

 米倉涼子とアルゼンチンタンゴダンサーの熱愛報道が出て、そのこと自体特に感じることはないのですが、この件に限らずテレビとかでタンゴの話題になるたびキャスターやコメンテーターの方が発する「アルゼンチンタンゴ=情熱的」のイメージをそのまま僕に当てはめてこられることがあり(飲み屋の席とかで多い)、僕はそういうタイプじゃないんだよなあ......と、期待に沿えず申し訳ない気持ちになります。例えばマリアニエベス先生なんて、信号待ちのあいだに煙草を吸ったりビュッフェで料理を選んだりしている仕草でさえタンゴの舞台を観ているような雰囲気があり、習いたての頃は先生からもよく、日常の所作から気をつけなさいと注意もされていたのですが、あまりにも僕ができないものだから、「たけしはもうしょうがない。タンゴを踊るときだけタンゴの一部になりなさい」と諦められたほどでございます(笑)。生意気なようですが、タンゴの雰囲気に自分を合わせにいっても上辺だけで陳腐に見えてしまうというか、きっとマリア先生もタンゴの雰囲気に自分を合わせにいったのではなく、長年タンゴを踊っているうち自然と染みついていったんじゃないのかな? 彼女のそんなところに魅力を感じて学びたいと思ったんだけどなあと考えていた部分もあったんですけどね。

 ときどきブログにも書きますが、僕は自分の踊りに対して年を取ったときどんな風になっていたいかというイメージは持っていますが、今については今できることを丁寧にやろうということと、イメージからの逆算に重きを置いています(それが楽しい)。前回のブログで、僕にとってタンゴは「Life」だと書きました。Lifeとは一枚のキャンパスに絵を描いていくようなものだと考えています。死んだときその絵は完成する。だから描いている途中で本人の意思と関係なく他人が終わらせてしまう殺人という行為が許せないと思っているわけですが、それは話が逸れますね。要するに、僕にとってタンゴが生活の一部であるという以外にも、そんなところに共通点を見出しているわけです。だから「情熱」というのとはチョット違うというか......。感想は人それぞれで構わないんですけどね。